秋成研究会

なお、第6回以降の研究会の模様は、随時ブログに書いておりますので、参照してください。

第5回秋成研究会のメモ

今回の担当は、井上泰至氏及び近衞典子氏
まず、井上氏担当箇所で残った東大寺の大仏を見に行く場所について

  1. 「毘盧舎那佛」の意味の説明、太陽との関係が重要
  2. 「近く参りたる法師」の説明について
      この法師の説明には、よくわからないところがいくつかある。   

    1. 「三たびの御うつし姿」をどう解釈するか
      ここの解釈に関しては、先行のどの注もすっきりとした解を与えていない。我々もいろいろ案を出してみたが、なかなかこれという決め手は得られなかった。
    2. 「五尺に過させしをまこととはたのみ奉る」という説明について。
      担当者から、大仏の大きさ(丈六・半丈六・大仏等、資料参照のこと)に関してくわしい説明があった。しかし、それらを参照しても、「五尺」という数字の根拠は 不明。古典全集に「増一阿含経」を引いて、「木像五尺に初めて刻んだ」という注をあげているのが唯一の裏付けらしい例。しかし、これが「五尺」であることの説明たり得 ているかどうかは疑問。もともと、この法師は、平城帝には受け容れがたい説明をしているわけだから、そういういいかげんな説明であると解すればよい、という案も出され た。それもたしかにうなずけるが、それでもやはり仏典その他に根拠がある数字ならば、やはり明らかにしておきたいところではある。
  3. そのあと、
    《富》露御こたへなくて、たゞたがはせで、物いひたまはず。此<御>本じやうこそたふとけれ。薬子・仲成等、あしくためんとするには、御烏帽子かたふけてのみおはすが いとほしき。
    《五》露うたがひたまはぬ御ほんじやうにて、御烏帽[子]かたふけさせたまふ。かく直くましませるを、薬子・仲成等、あしくためんとするこそ、いとほしけれ。
    という箇所の比較検討を行ない、五年本に「直くましませる」の語があること、富岡本に「此御本じやうこそたふとけれ」という平城帝を直接擁護するような語のあることの 意味などについて検討した。

後半は、近衞氏の担当箇所(「血かたびら」の最後まで)へ

  1. 富岡本の「御臺まいらす。よくきこしをして、難波の蜑がみつぐは、古も近きかとぞ。」の傍線部について。
    掲げたのは秋成全集本文。ただし、傍線部をこれまで他の翻刻本文はすべて「こゝ」と翻字している。影印によってみても、「こゝ」と読んでいいように思われる。秋 成全集は他にもかなり本文を訂正している箇所があり、それらはおおむね首肯できるものであるが、ここは、もとの本文「こゝも」と読む方がいいのではないかという意見が 多かった。
  2. 仁徳帝と菟道稚郎子の位譲り
    「白峯」にも引かれている挿話であるが、今回あらためて、『日本書紀』の該当部分の本文を通読し、「聖帝」仁徳天皇を印象づけるための非常に儒教色のつよい話で あることをあらためて確認した(『日本書紀』本文の関連箇所をすべて読むことはなかなかやらないことなので、少し時間がかかったがとても有意義でした。)。
     以下、これを踏まえての各稿本本文の比較に言及
    1. この挿話の記述は、稿本により、かなり異なる。
    2. 叙述の順序だけをみると、冊子本が日本書紀に一番近いといえる。
    3. 「ひじりのみこと」という語に関して、他の用例が示された。
    4. 五年本にある「たわやぎ」という語、冊子本にある「善柔は損多しと申されしぞ乱世の人の心也」という一節なども特徴的な箇所である

    等の指摘があった。

これ以後は、次回へ。


第4回秋成研究会のメモ

今回の担当は、井上泰至氏。
退位後の宇治から奈良に向かう場面、さらに東大寺の大仏を見る場面までが担当範囲。
ただし、例によって、奈良に着いたあたりで時間切れになり、大仏のあたりは次回へ。

以下は、話題になった論点を、木越の責任でまとめたものです。

  1. 平城帝の歌「ものゝふよ……」の含意について。

    「たひらけく」という語は、宇治橋の橋板の状態を詠んではいるのであろうが、「もののふ」に呼びかけていること、及び「たいらけく」の万葉の用例などから、天下のことを念頭に置いているだろう。この語が「たひらぐ」という動詞にもなりうることからすれば、のちの乱を暗示している、とまでいうのは言い過ぎか? いずれにしても、単に橋板の状態だけでなく、天下国家を念頭にしているという読みの可能性を考えられないか。
    担当者のこういう趣旨の発言に対して、

    1. しかし、ここは、あくまでも、退位後の平城帝のはればれした気分を表現しているところではないか、という意見が出された。
    2. また、「たひらけく」という語に関して、『日本国語大辞典』は「穏やかである。静かである。平穏無事である。」という意味のみを記述している。(『角川古語』も同様)。とすれば、橋板が「平らである」という、この場合にまず考えるべき意味・用法が普通に存在するのかどうかを確認する必要があるのではないか、ということが話題になった。

  2. 薬子及び臣下の和歌について

    山吹の歌の含意と「橘の小嶌が崎」に関する歌枕考証の意味について

    1. これらの歌に関して、この奈良行きはいつのつもりで書いているのだろうかということが話題になった。史実では、奈良に平城帝のための住まいを造営してから移動しているので、退位の年の冬である。ただし、あとの歌に「山吹」が出るので、晩春ないし初夏とも考えられる。ただし、後述するようにこの歌の「山吹」は眼前にあるものとして詠んではいないので、これだけで決められるか、なお問題が残る。
    2. 薬子の歌「朝日山にほへる空はきのふにて衣手さむし宇治の川波」の「衣手さむし」というところに彼女のいまの気持ち(=頼りにしていた帝が位を去って不安である、というような)がこめられている点は誰もが認めるところ。それに対して、平城帝が「河風はすゞしくこそ吹け」(=私は退位してさわやかな気分だよ)と反論する、という構造になっている。
    3. 同様に、「君がけふ朝川わたるよど瀬なく我はつかへん世をうぢならで」の歌も、これまで仕えてきた臣下である我々は「世を憂し」という気分であるが、それでも、気を取り直して、このあとも仕えますよ、という意志を表明していることになる。
    4. 「妹に似る花としいへばとく来ても見てまし物を岸の山振」の歌も、単に宇治にちなんだ「岸の山吹」をとりあげているようにみえるかもしれないが、その「山吹」がいまは咲いていないので、残念だという歌であるから、そこにながれている気分は、前二首と同一のものとみてよいであろう。これに対して、平城帝は、「岸の山吹」を詠んだもとの歌に出る「橘の小島が崎」の地名に関する考証を展開し、宇治説に拠るべきではなく、「飛鳥の故さとの草香部の太子の宮居ありし所」であると、ここは秋成の自説をそのまま記している。この箇所は、従来、秋成の自説披露のためのやりとりと理解されてきたと思われるが、実は、それを材料のひとつにしつつ、平城帝は、この場所で「岸の山吹」を見られないことを残念がるのは(場所が違うのだから)見当違いだと反論していると読める。つまり、歌枕考証ふうの記述にみえながらも、構造としては、薬子とのやりとりと同じ性質のものがあると見ていいことになる。

    山吹の歌の含意と「橘の小嶌が崎」に関する歌枕考証の意味について、たぶん、ここまで議論されたことはなかったのではないかと思われる。その意味で、きわめて有意義な検討であった。

  3. 薬子らの歌が文化五年本にないことの意味について

    帝の歌に対して、各稿本は、
          《富》是をうた人等七たびうたひ上る。
          《五》是をうたはせて、うた人等吹しらべ奏す。
          《冊》是をうた人等七たびかへしてうた<ひ>上る。
    となっている。すなわち、富岡本と冊子本は七回詠み上げただけだが、文化五年本だけは「吹しらべ奏す」とあるから、伴奏入りで、かなり派手に披露されたことになる。

    なお、こういう帝の御製歌を披露するというような朝廷の儀式に関して、光格天皇(明和~天保期在位)の朝儀復興の動きやこれに呼応した当時の国学者達の動きなどについての紹介があった。これをふまえて、富岡本・五年本に書かれている御製歌披露の儀式が、どのように行なわれたかということに関して、秋成はどの程度具体的なイメージを持っていただろうか、ということも話題になった。

    ともあれ、文化五年本は、こういうかたちでかなり派手に帝の歌を披露するだけでこの場はよしと判断し、富岡本・冊子本のように、薬子やその他の臣下の退位に対するこだわりを示す和歌を並べる必要はないと判断したことになる。それが、いいか悪いかは、執筆の前後関係も含めて、いまのところ判定不能というしかない。

この後、奈良周辺の天皇陵に関する当時の動向(藤井貞幹の調査など)が紹介され、地名を地図で確認するなどの作業を行なったあたりで、時間切れになった。

過去の秋成研究会資料

第5・6回 近衞担当箇所[PDF]・近衞担当箇所(本文編)[PDF]

第4回 平成23年2月22日(火):井上担当箇所[PDF]

第3回 平成22年12月14日(火):高松担当箇所[PDF]

第2回 平成22年11月9日(火):木越担当箇所[PDF]高松担当箇所[PDF]

第1回 平成22年10月12日(火):木越担当箇所[PDF]